北前船と江戸時代の市場経済
日本古来の製鉄技術である和鉄についてその源流や、出雲との関連等述べてきた。
経済は、物品の交換から端を発し、地域間の物流が重要な役割を果たす。
陸上交通を人の足と馬牛による運搬に頼る事には、自ずと限界がある。
そこで登場したのが、日本海を南北に往来する、「北前船」の存在である。
以下、北前船と江戸時代の市場経済について書いてみよう。
江戸時代に入ると自給以外の食料生産が確保されて、都市部において各地の生産品を求める
機運が高まり、中期以降から各地の生産品を必要としている地域に運ぶ物流の必要性が高まり、
流通経済が勃興した。全国諸藩は、徴収した年貢を売れる地域へ高い値段で運ぼうとした。
この時代の主要都市をみると江戸東京は、一大消費地であり、上方大阪は、天下の台所として
各地の生産品が集められた。当時の輸送手段としては、五街道(東海道・中山道・日光街道・
奥州街道・甲州街道)による陸路があった。しかしながら陸路は、輸送量と移動距離も限られ
負担も大きかった。一方、海路による船の輸送は、遭難の危険は常にあったものの、輸送量と
輸送距離において陸路よりはるかに優れていた。
海路による輸送は、江戸時代の「鎖国」体制の下、日本列島の沿岸海運が中心であった。
当初、若狭湾から北陸以西の物品を陸揚げして内陸に運ぶ「内陸水運ルート」が存在していた。
このルートは、若狭湾の敦賀湊より陸路を進み琵琶湖北端の街、塩津より南下し、
大津から京都に入り淀川を進み大阪難波に至るルートである。このような「内陸水運ルート」は、
室町時代から行われた。
徳川幕府は、天領である奥州の年貢米を江戸に輸送する手段を当時の政商「河村瑞賢」に命じた。
これが後に日本列島の太平洋沿岸を南下する輸送手段として「東廻り航路」と呼ばれた。
更に、大阪上方へのルートは、山形酒田湊より日本海沿岸を遥か南下し下関から
瀬戸内海に入る「西廻り航路」として確立された。
徳川幕府の鎖国令以降の230年間は、幕府の本拠地江戸は政治の中心地であり、
経済の中心地は、大阪・京都の上方であった。そのため全国の生産品が大阪に集められて
取引され江戸へ輸送された。又、食料などの日常必需品は北海道や東日本各地から江戸へ運ばれた。
海上輸送は、三都(大阪・京都・江戸)と各地の港湾都市とを結ぶ流通と情報伝達の
一大ネットワークとして形成され、機能するようになった。
当時、荷物を積んで海を航行する大型の木造帆船(廻船(かいせん))は、
一般的に「弁才船(べんざいせん)」と呼ばれた。
特徴的な船として「菱垣廻船」と「樽廻船」があった。いずれも大阪から江戸への「菱垣廻船」は、
荷の落下防止のために船の両側に菱形の垣立をめぐらせていたことからその名前がつけられた。
一方「樽廻船」は、江戸に酒や醤油を供給する専門船であることから樽の名称が使われた。
これ等の船は、全長が30メートル、幅7.5メートル、45トンもの積載が可能であった。
しかしながら、多くの荷を積むために甲板面積の少ない構造であったためにバランスを崩し
転覆することもあった。時に嵐に見舞われると荷積みを海に捨て凌いだとも云われている。
海路による輸送は、日本近海の海流の影響にも関係するが、当時大阪から東京間、
約1カ月前後を要して800隻程が、運航していた。
江戸時代、水路を使った船による運搬は、海上だけでなく河川でも行われた。
これが「高瀬舟」と呼ばれる川船である。「高瀬舟」は、室町時代末期から備中・美作国
(現岡山県周辺)の河川で使用され始め江戸時代に各地に普及した。
文豪森鴎外の代表作「高瀬舟」では、江戸時代、罪を犯した罪人が京都伏見にある
高瀬川から加茂川を経て大阪に向かう護送の場面も書かれてある。
東日本の「高瀬舟」としては、銚子の醤油を利根川から江戸川を経て日本橋界隈の蔵に運んだ。
江戸中期になると大阪と北海道間の日本海沿岸を縦横無尽に運航していた廻船が「北前船」呼ばれる
大型船で和鉄の流通にも使われた。「北前船」は、物を運ぶ役目と共に日本海沿岸各地に
様々な文化も伝え運びその交流の足跡が、多く遺されている。
やがて北前船は、明治20年代を過ぎる頃から電信、郵便等の通信手段の発達による
地域間格差も無くなり陸路に替わることになった。

奥出雲の和鉄 – たたらの歴史 – 鉄の道文化圏 (tetsunomichi.gr.jp) ※一部参照
過去の鉄についてのはなし
“鉄”のはなし – TOP BLOG 寺子屋”ZEN” (toptools.co.jp)
たたら製鉄の源流 – TOP BLOG 寺子屋”ZEN” (toptools.co.jp)
和鉄の古里 - 出雲から – TOP BLOG 寺子屋”ZEN” (toptools.co.jp)