ジャイアント馬場の故郷から
寺子屋ZENでのブログを2022年12月1日よりはじめて1年目の真ん中を通過した。
毎月2回の連載は2週間区切りでテーマを決める。その作業は新たなテーマ探しのため
関連する書籍を読み込んだり、過去の作品を見直したりという多方面から創作する。
歴史・史跡の創作には何よりも現地で見聞きする以上の方法は無いだろう。
今回は3年前に書いた作品を温め返して載せる。
その作品は私たちが住む三条市が生んだ偉大なプロレスラー“ジャイアント馬場”の話である。
かなりのボリュームとなるが、プロレス界のヒーロー G・馬場の大きな魅力を知ることができる。
ちなみに7月の末に鹿児島へ行った際、ブログに掲載するに値する情報を
たくさん仕入れてきたが、これらの内容は次回とする。
2019年12月、ジャイアント馬場(以下G・馬場)の没後20年の記念展が、彼の故郷である新潟県三条市で開催された。3日間の記念展には、G・馬場のメインレフェリーを務めた「和田京平」氏、かつて付き人でもありG・馬場の還暦試合の相手にもなった「小橋建太」氏、更に元プロレスラーで衆議院議員の「馳浩」氏も会場に駆けつけ生前の彼を偲ぶトークショーも同時開催された。
会場正面には、オレンジ色の刺繍が施されたガウンをまとった身長209センチの等身大のG・馬場のフィギュアも飾られて現役時代の雄姿が再現された。展示品として彼が往年趣味として描いてきた絵画や奥様(元子さん)宛の手紙等も含め186点に及ぶ遺品が集められ全国から氏を慕う多くの来場者で大盛会の記念展となった。
G・馬場の生まれ故郷、新潟県三条市では今回の没後20周年記念展の開催以前から「三条ジャイアント馬場倶楽部」を発足させて名誉市民活動を推進しその活動として王貞治氏はじめ一万名の署名活動を行ってきた。(G・馬場は、2016年に三条市名誉市民となる)更に名誉市民となった翌年2017年10月には「ジャイアント馬場顕彰記念展」も開催されG・馬場の大ファンでもあったアナウンサー徳光和夫氏の講演も行われた。以上の経過から2019年の没後20年の開催は地元の記念展としては、2度目となった。
プロレスラーG・馬場は、なぜ没後20年の現在も生まれ故郷三条市でこのように慕われ続けているのであろうか。
私の実家は、G・馬場が生まれて高校2年までの17年間過ごした馬場家の近所にある。私の記憶の中には、母親や当時の彼を知る人から伝え聞いた話が断片的に残っている。それは、当時から飛び抜けて大きかった馬場少年の体格と共に何よりも優しい彼の性格についての話も多く含まれていた。
G・馬場(本名、馬場正平)は、昭和13年(1938年)三条市内の青果商(八百屋)の4人兄弟(兄と姉二人)の次男として誕生した。長男の正一は、G・馬場六歳の時、大東亜戦争の激戦地ガダルカナル島で戦死している。昭和19年に6歳で兄の死を知った馬場少年は、兄が使っていた絵具箱を見つけ果物や地元の風景を描き始めた。彼は、早世した兄への思いを兄の遺した絵具で絵を描く事で生涯にわたり持ち続けていた。
生前G・馬場は、生涯の趣味として第一に絵画(海や港の絵が多い)を公言していた。ちなみに彼の母親の妹とそのご主人は、夫婦共に日本画家として美術年鑑にも載っている。
さて三条市は当時から隣接する燕市と並び日本有数の金属加工の生産地域であった。市の中心部から信濃川の支流である五十嵐川を渡った処にあるG・馬場が生まれ過ごした地区は、住宅地の中の至る所に鍛冶工場があって日の出と共に「トッチンカン…」と槌音が響き渡る活気ある地区であった。当時私の祖父も同じ町内で職人を使っての鍛冶工場を経営していた。
G・馬場の生家は、「梅田屋」と云う屋号で当時三条市内から近隣の(見附市、加茂市、長岡市等)街で定期的に開かれていた朝市に野菜、果物を販売する商いを生業としていた。
市場には、新鮮な青果を早朝から運ばなければならない。馬場少年は、自転車に括り付けたリヤカーに青果を乗せて日の出前から長い時は片道10キロの道のりの中、リヤカーを引いて家業を手伝ったと云われている。これ等は学校へ行く前の彼の日課であり町内でも知られた孝行息子であった。
冬場の積雪時には、母親の引く雪そりを後ろから押す馬場少年の姿を私の母親は「大きな中学生が、吹雪の中、雪そりを押して働いている」と話していた。
その日課は、小学5年生頃から高校2年生まで7年間続けられた。(高校2年で中退し上京)それらの体験は、彼が40年もの間、厳しいプロレス界で現役を全うできた原動力になったと云えるのではないか。
そんな苦しい日課の中でも彼の楽しみは、市場近くの老舗和菓子屋さんに寄って大好きな“豆大福”を買い食いする事であった。
菓子を買った後、彼がお釣りを受け取る大きな掌の中を見ると小銭が何処にあるか分からない。そんな時に店の女将さんが彼に「大きな手だね」と話すと彼は、しょうしがって(地元で恥ずかしがる意味)赤い顔をしてうつむいていたそうである。
あるテレビ番組で「死ぬ間際で一番食べたい物は?」の質問にG・馬場は、即座に“豆大福”と答えていた。このエピソードから彼の味覚の中では、少年時代に食べた“豆大福”の味が生涯忘れられなかったのであろう。
当時から米どころ新潟は、大福の原料となるもち米(こがね餅)の日本有数の産地でもあった。
G・馬場の小学校入学時の体格は、むしろ小さいほうであった。しかしながら小学校3年頃から急速に身長が伸びて高校入学時には、既に190センチを超えていた。彼は、体が大きいばかりでなく人並み以上に運動神経も優れていた。(体操と図工は優)
当時小学校で盛んであったドッジボールと野球でも大活躍し常に目立つ存在のガキ大将(当人曰く)になっていた。特に野球は戦後しばらくして日本の国民的スポーツとなり、馬場少年はごく普通にプロ野球選手の夢を抱く体の大きな野球少年として新潟の地方都市で過ごしてきた。彼はある著作の中で少年時代のガキ大将ぶりとその後の自分の境涯について次の様に語っていた。
私が大きくて強かったから、女子生徒に限らず喧嘩を仲裁された男子生徒たちの中にも、逆らうことも出来ずに泣き寝入りというケースがあったかもしれない。いま問題になっている“いじめ”という陰湿な行為だけは、絶対したことはなかったが…。昔のガキ大将というのは、もっとカラッとしたものだった。だが、もし私の体が小学校低学年のころのように平均以下だったら、私の性格からいってガキ大将になどならず、ましてやプロレスラーになどなるはずもなく、“感心な孝行息子”のまま家業を継ぐか、よく云って物静かな画家にでもなっていたことだろう
ジャイアント馬場 王道一六文
真面目で何事にも真摯な馬場少年は、当時頻繁に地方都市で布教活動をしていたモルモン教に入信し、近くの五十嵐川で体をひたす浸礼をも受けていた。
中学校卒業後は、上京しプロ野球選手の夢を抱きつつも母親の熱心な勧めもあり地元の高等学校(三条実業学校工業科)に入学する。迷うことなく硬式野球部に入る。しかしここである現実を知る。それは、大足のために硬式野球用のスパイクシューズないのだ。仕方なく彼は、美術部に籍を置く。そのころ以前から地元出身力士を介して彼の並外れた体格を知っていた関脇栃錦(後の春日野理事長)が、新潟巡業の折自宅に来て相撲部屋入門を勧めた。しかしながら“相撲取りとボクサーだけはさせない”という母親の固い意思により力士への勧誘を断わった。
そんな時、野球の夢を捨てきれない彼に当時の野球部の部長が特注のスパイクシューズを提供してくれたのだ。それからの彼は云うまでもなく好きな野球を思う存分にやった。地元で当時のG・馬場の野球を良く知る野球経験者は、彼の強靭な足腰の安定感と併せて特に柔軟性を高く評価していた。
高校では、練習試合7連勝や1試合18奪3振を奪う等夏の甲子園本命と目されるも予選1回戦でチームの得点が取れず惜敗した。
G・馬場が高校2年の2学期に転機が訪れた。それは巨人軍スカウト源川英治氏がプロ野球入団を勧め自宅を訪れたのだ。彼は即時入団の意志を告げ巨人軍の入団が決まった。彼は当時の状況を余りの嬉しさで有頂天になって踊り狂う程であった、と回想している。
この期を境にリヤカーを引き家業を助け学業に励む生活から一転、昭和30年(1955年)高校を中退して上京、プロ野球選手としての生活が始まった。入団時巨人軍の同期としては、森、国松がいた。又、当時の巨人軍は川上、千葉、別所、藤本等そうそうたる選手が在籍していた。
当時、兵庫県明石市のキャンプ地で生涯の伴侶となった元子夫人との出会いもあった。
入団後は名将水原茂監督の下、2軍で連続最優秀選手となり活躍し、昭和32年1軍初登板を果たす。しかしながらその直後、極度の視力低下が彼を襲い脳腫瘍との診断で手術を余儀なくされた。手術は奇跡的に成功し見事復帰を果たしている。
更に彼の不幸は続く。宿舎(当時大洋ホエールズに移籍)の風呂場で転倒し左肘17針と指の関節を痛める大怪我を負った。(その後怪我は自然治癒)
G・馬場は、プロ野球選手としての選手生命を絶たれドン底の境地に立たされた。
しかしながら彼は、人生の難局を自らの強い意思により新天地に導いた。プロ野球選手としては絶たれたもののプロスポーツ界で生きていく選択を格闘技に求めた。
怪我の回復を待って迷うことなく近所のボクシングジムに通い、そして巨人時代に面識のあった人気プロレスラー力道山の門を叩く。当時のエピソードとして力道山は、100回のヒンズースクワットを命じそれを難なくこなしたG・馬場に 即時入門を許したと云われている。
雪深い新潟の地で日課として続けたリヤカー引きが、足腰強化となってあらゆる運動の基礎となり還暦を過ぎてもリングに立てた(生涯現役)原動力となった訳である。
こうして彼のプロレスラーとしてのスタートは昭和35年(1960年)に切られた。
因みに彼は40年のプロレスラー人生の中でも特に足腰を中心とした基礎訓練と受け身の重要さを繰り返し弟子に説いていた。
さて昭和35年(1960年)力道山門下に入ったG・馬場は、(アントニオ猪木と同期)その後師匠力道山の知遇を得て翌年には、武者修行の為渡米を果たす。
当時の米国では、日本人悪役レスラーとして日露戦争で活躍した東郷平八郎の名を借りた「グレード東郷」が活躍していた。彼は、日本流にリング上で相撲の四股を踏み、塩をまき散らすパフォーマンスで観客の目を引かせた。米国では、坂本九の「上を向いて歩こう」(現地ではSUKIYAKIソング)が日本の流行歌として紹介された。後にこの曲は全日本プロレスの試合終了後に流される楽曲となる。
渡米後のG・馬場は、現地の師匠アトキンス氏と出会い一六分キックを武器に大きな体躯を生かしたファイティグスタイルを会得した。彼の巨大な足に吸い込まれるように頑強な外人レスラーが、次々ダウンを奪われる。そのスケールの大きいプロレスに全米が熱狂した。それはアメリカンスタイルと呼ばれるスピード感ある大技を次々に繰り出すやり方で今日の興行プロレスに引き継がれた
そしてわずか渡米3年で生涯の盟友となる白覆面の魔王、ザ・デストロイヤーとWWA世界ヘビー級王座を賭けたタイトルマッチを行った。昭和38年には力道山と共に日本に凱旋し大歓迎を受けた。更に師匠力道山とのタッグも実現、当時日本は戦後の高度成長期スタートの時代でプロレスは大衆娯楽スポーツとしての地位を築くことになり、テレビ中継の高視聴率を獲得する。
そんな折に師匠力道山が、殺傷された。
師匠亡きあともG・馬場は、ルー・テーズやブルーノ・サンマルチノ等世界の強豪レスラーと対戦し師匠が果たせなった数々の世界タイトルをモノにした。日米で人気を博したG・馬場は、名実ともに“東洋の巨人”から世界的プロレスラーとなった。彼の強靭な体力は、デビュー20年目で3000試合を達成(年間150試合を転戦)現役最後の試合は、平成10年(1998年)12月5日、日本武道館開催で通算5758試合目であった。
彼はプロレスラーとしてそのリングネームジャイアント馬場の顔と共に、アメリカ修行時代に培った人脈を生かしての興行主としての才覚もまた一流であった。ザ・デストロイヤーやスタン・ハンセン等米国の有名レスラーを次々日本に招聘し日本国内でプロレスブームを起こした。国内では「全日本プロレス」の設立者としてジャンボ鶴田、坂口征二、大仁田厚等、有能な若手レスラーの育成も熱心に行い結実させたことは周知の事実である。
彼の晩年の試合として亡くなる(平成11年1999年1月31日死去)1年前に後楽園ホールで開催された「G・馬場還暦特別試合」が特に印象に残っている。それは、6人タッグマッチで行われた若手を入れての試合であった。G・馬場は、30歳も年齢差のある小橋建太を相手に一歩も引かずに空手チョップを繰り出した。更に小橋が同じ空手チョップで反撃すると両拳を体の前で握り絞めて「小橋もっとかかってこい」と云わんばかりに全身でチョップを受けていた。その顔は、嬉しそうでもあった。
それは現役時代、如何なる相手であっても決して手を抜かず、常に観客を意識したスタイルで戦ったG・馬場その姿であった
彼は世界的なレスラーになってからも生まれ故郷の三条市を決して忘れることはなかった。定期的に地元の聖地とも云える三条厚生会館で地方興行試合が行われた。
私には遠い記憶が残っている。小学校低学年の頃であろうか。試合を終えたG・馬場本人が、赤いパンツ姿で試合会場前の広場に立っていた。汗で光っている体を子供達がしきりに触っている。馬場本人は、細い目をして笑っている。私には、彼の背中があたかも長方形の衝立の様に大きく感じた。
G・馬場からは、その屈強なレスリングスタイルから想像もできない程のきめ細やかな心使いを感じる。いくつかのエピソードを紹介したい。
昭和63年にG・馬場と数々の対戦をしてきた宿敵「ブルーザ・ブロディ」が死去した。その時G・馬場は、自ら祭壇を造りブロディへの鎮魂の気持ちを表している。
常に相手の気持ちを察する彼は、人と争う事を嫌ったと云われている。あるインタビューで中学時代に担任教師からビンタを食らった経験が1度あり、後味の悪さから現役時代に弟子に手を挙げることを慎んだと云われている。全日本プロレスのオーナーでもあったG・馬場は、レスラー達に当時としては稀であった年金に加入させ不安定な彼らの引退後に備えさせた。
弟子たちには、レスラーの前に良き常識人であれと広く社会勉強することをすすめていた。彼自身も年間200冊以上の読書をする知識人でもあった。
G・馬場が死去した年の5月2日、東京ドームで「ジャイアント馬場引退記念興行」のセレモニーが、行われた。会場には、かつて彼の盟友達(ザ・デストロイヤー、ジン・キニスキー、ブルーノ・サンマルチノ)が在りし日のG・馬場を偲び集まった。
リングアナ仲田龍が、「300ポンド、ジャイアント馬場」と涙声でコールした。
元子夫人が、夫G・馬場の思い出の白いリングシューズを携えリング中央に置いた。
ザ・デストロイヤーが、そのシューズを掴み上げると白い覆面の奥の目が潤んだ。
最後のカウントゴングが10回会場に響き渡り、セレモニーは静かに終了した。
現在3人の盟友達、仲田リングアナそして元子夫人全てが鬼籍となった。彼らは、既に他界したG・馬場と天国で再会している。
G・馬場と親交のあったある外国人レスラーは、「あなたと日本で闘えて本当に誇りに思う」と語っていた。
没後20年を経てG・馬場の地元新潟県三条市では、彼の遺徳を地元に形ある物として残そうと「G・馬場ロード」と称して彼の足跡を後世に残す活動をしたいと考えている。この活動は、地元の偉人でもあり、日本の偉人でもあったG・馬場の生涯を知ることで子供たち将来の夢を育む一つとなればとの願いもこもっている。
彼の生家からスタートする「G・馬場ロード」は、60年前にG・馬場が家業を支える為にリヤカーを引き自分の夢に向かって歩んだ栄光の道と云えるかもしれない。
【出典】ジャイアント馬場 王道一六文