寺子屋”ZEN”は新潟県三条市の工具メーカーに勤務40年の丸山善三がお届けするWebメディアです。

和鉄の古里 - 出雲から

今年(2023年年初)のブログで鉄についての触れさせていただいた。仕事柄、鉄の加工をしている会社であるだけに常に鉄(鋼)については、敏感に成らざるを得ない。

以前、かねてより興味を抱いていた、島根県、出雲の地方を1人で尋ねたことがあった。その時の旅行記をご紹介したい。

                                     

今回の旅行は、「鉄の国出雲」の和鉄(たたら製鉄)発祥の地を訪れその成り立ちを知る目的があった。それは、私自身金属加工業に従事し会社でも島根県安来で造られている「ヤスキハガネ」(YSSの商号)を使っていることからも非常に興味深いことであった。

三条市内の古い光景の一つに陽が落ちると五十嵐川沿いの「ヤスキハガネ」の赤いネオンが浮かび上がりそんな当時を知っている市民も数多い。

 参拝後、私は大社の東隣に併設されている「県立古代出雲歴史博物館」に向かった。
幸運にも「たたら-鉄の国 出雲の実像-」の特別企画の開催中であることが分かった。(2019年7月~9月)私は此処で今回の旅行で期待していた出雲の和鉄についての情報を得ることに期待した。

  • 和鉄は、どの様に日本に伝わり、なぜ出雲の地を中心に生産されたのか?
  • 和鉄は、どの様な方法で作られるのか?
  • 和鉄の国出雲と金物の街三条・燕との歴史的な関連性は如何だったのか?

博物館に入ってから私の頭は和鉄に関する様々な興味と疑問が交錯し始めた。館内は、間接照明の落ち着いた雰囲気で来場者も疎らだ。企画展会場の入り口で初老の夫婦と一緒になった。

聞く処はるばる北海道から私と同様、鉄に興味があり訪れたとのことであった。

以下、私が出雲で鉄の企画展を観た後、更に和鉄について考察した内容を述べみたい。

文明の黎明期を生活様式でみると石器・土器・骨角器の時代から青銅器・そして鉄器の時代へと推移していった。鉄は直ぐに、鋤(スキ)や千把(センバ)等当時の農具に使われた。その後鉄は、特に平安時代中期を過ぎてから盛んに造られ飛躍的に普及した。そして素材を形作る「産業の米」として今日に至っている。(21世紀は未来に向けて半導体がまさに産業の米に取って変わるであろう)

 我が国の青銅器・鉄の出土は、九州、中国地方、近畿の西日本に集中している。出土に関して鉄は、炭化されその原型を留めることは稀であった。歴史的にみると鉄と青銅器は、紀元前3世紀(弥生時代)頃朝鮮半島から伝わったと云われている。世界的な鉄の生産過程をみると西欧では、鉄鉱石から生成される。一方中国大陸では、砂鉄から生成される。それらは、鉄挺(てってい)と呼ばれる器状にして運ばれて来た。彼らは、韓鍛冶(帰化系技術者)として和鉄の原料となる砂鉄を求めて大陸より遙か日本の地へ渡って来た。

砂鉄は、花崗岩や石英粗面岩の砂礫に数パーセント含まれる。問題は砂鉄を溶かす為、大量に必要とされる木炭である。和鉄1トンを造り出すに12トンの砂鉄と更に14トンもの木炭が必要とされたと云われる。

「和鉄10トンに山林1町歩」と云われる位に豊かな森林地帯の樹木が鉄を養っていた。

漢民族の黄河流域や朝鮮半島もかつては森林の連なる場所だったであろうが、一部の地域を除いて乾燥した大陸の内陸部は、一端森林が破壊されると容易に復元出来なかったのであろう。日本は高温多湿のモンスーン地帯であるために、森林樹木の復元力は中国内陸部や朝鮮半島に比べ格段に優れている。そこで彼らは、大陸から豊富な森林資源を求めて日本の地に渡って来たのだ。弥生時代に西日本を中心に大陸から伝来された鉄は、その後山陰の出雲更に中国地区内陸部の備後、備中を中心に日本で良質な和鉄の生産地として根付いたのである。

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