寺子屋”ZEN”は新潟県三条市の工具メーカーに勤務40年の丸山善三がお届けするWebメディアです。

読書から現地を訪ねる

司馬遼太郎『街道をゆく42 三浦半島記』の地を訪ねる

―横須賀と日本の工業化―

 昨年の晩秋、私は、1人新潟から上京した。
その目的は、予てから所望していた横須賀の地を訪ねる事であった。
実は国民的な歴史作家である、司馬遼太郎氏の著作
『街道をゆく42 三浦半島記』を読んで、1度彼の地、横須賀訪問を果たしたいと
思ったからである。10月下旬の横須賀市は抜けるような空の清々しい日であった。
私は早速、横須賀駅前にある「ヴェルニー公園」に入った。
公園からは、海上自衛隊基地に停泊している護衛艦を望むことが出来る。
ヴェルニー公園の他に港沿いにある著名な公園としては横浜市にある「山下公園」がある。
そこは、日本郵船の氷川丸が観光船として係留されている。
山下公園には行かれた方も多いのではないでしょうか。

さて私は、横須賀訪問の主目的である「ヴェルニー公園」の入り口にある
「ヴェルニー記念館」に入場した。ヴェルニー記念館は、横須賀製鐵所(造船所)
を建設し日本の近代工業化の礎を創ったフランス人の造船技師、フランソワ・レオンス・ヴェルニー
の功績を称え、その意義を後世に伝えるためにこの横須賀市に建設された。

ヴェルニー記念館内には、今から160年前にオランダで製造された国の指定重要文化財
であるスチームハンマー2基(3トン・0.5トン)が展示されている

ここで横須賀造船所建設に至る内容を述べたい。

幕末期の1860年(安政7年)「日米修好通商条約」の書類交換を目的とする
遣米使節と呼ばれる使節がアメリカに向けて出航した。当時、使節団の一員で
目付役の小栗上野介忠順は、アメリカのワシントン海軍造船所を見学して得た
見聞体験から日本自ら整備・修理可能な造船所建設を模索し続けていた。
幕府の要職者でもあった小栗は、盟友栗本鋤雲の協力を得て、フランス工業技術の
高さの実証からフランスの協力を得る形で1864年念願の造船所建設を取り付けた。

横須賀の地の選定は、当初からその土地が、東京湾に突出する横須賀・箱崎の二つの
小半島に囲まれ、水深もあって、良港に適するとして注目されていたからである。
そして、1866年(慶応2年)湾奥部に横須賀製鉄所が設立された。
一概に製鉄所・造船所と言っても実際は、ワイヤーロープの加工や蒸気エンジン・歯車・
ネジ等の加工もできる総合的な工場であった。これが後、明治政府の横須賀造船所となり、
海軍に引き継がれた。更に横浜の東海鎮守府が横須賀に移されたことで横須賀鎮守府となった。
1903年には造船所は海軍工厰となり以後、諸施設が置かれ日本海軍最大の軍港に発展した。
現在は、在日米軍横須賀海軍施設として機能している。当時の横須賀造船所の技術は、
世界遺産登録された、富岡製糸場の建設にも応用されている。

横須賀製鐵所(造船所)創設当時の役割は以下の通りである。

その①:造船と船の修理

    →国産初のヨーロッパ航行船「清輝」を建造し外国船の修理でも収益を得る。

その②:西洋式灯台の建設

    →日本初の西洋式灯台「観音埼灯台」「品川灯台」等四基を建設。

その③:技術研究と教育(技術移転政策)

    →日本の工学研究の拠点となって、技術者の養成所を設立。

その④:機械、部品の製造

    →富岡製糸場、生野銀山、野澤紡績所等、日本の工場の機械や部品を生産し
     近代化に貢献。

フランス人技術者ヴェルニーを介して日本にもたらされた工場建設のノウハウは、
単に技術伝承だけでなく、工場運営の方法として労務管理等も取り入れた近代経営
の形態であったことは、驚きに値する。

さてヴェルニー公園内には現在、戦艦陸奥の主砲身が展示されている。
戦艦陸奥は、大正10年に就役した。陸奥は戦艦長門と共に日本海軍を牽引して
世界にその名を広めた。戦艦陸奥は、第二次大戦中は出番がないまま昭和18年の6月18日、
周防大島伊保田沖にて原因不明の爆発事故により爆沈した。大惨事の内容は、死者1121名
(総員1471名)わずかに生存者350名であった。しかしながらそれらが公表されることはなかった。
後に遺族に公表されたのは、大惨事から2ヶ年後の事であったと言われる。

実際には生存者もいて、いかに原因がはっきりしない事故の内容を秘匿にしたのかがうかがわれる。

 歴史作家である吉村昭氏の著作『陸奥爆沈』では、その原因が如何なるものであったのか?
その謎を解明した記録が克明に記されている。

 事故で海底に沈んだ陸奥は、戦後瀬戸内海の42メートルの海底から引き揚げられ
昭和45年には船体の一部や、主砲塔、主砲身、更に菊の御紋章などが回収され、
主砲八門の内の一門は、ヴェルニー公園内に移設されている。主砲41センチ、全長
18.8メートル、重量102トンである。ヴェルニー記念館には、全長2メートルを超える
陸奥全体の精密模型が常設されている。

横須賀製鐵所という幕末最大の国家プロジェクトは、船舶の修理という主要な役割を
果たしながら日本の近代化を推し進めた。その姿は、小栗上野介忠順ら幕府の役人たちが
思い描いていた構想そのものであり、これらに関わった人々の熱意が伝わってくる。
しかしながらこれらは、工場の完成でピリオドを打った訳ではなく、日本の近代化を見据えた
慧眼なるプロジェクトであったことがうかがえる。

思えば1853年(嘉永6年)アメリカ海軍のペリー提督は、日本に開国を求め
横須賀に近い久美浜の地に足を踏み入れた。その後、19世紀半ばからの我が国近代化の
足跡を辿れば、日本は、全世界に比しても短期間の中で近代化を成し遂げた国であること
に納得できる。私達は、改めて日本と世界との関りを歴史から学び、先人たちが遺した
偉業を後世に伝える役目を忘れてはならない。

 2015年(平成27年)には、横須賀製鐵所創設から150年経て、
『―すべては製鉄所から始まったー』として横須賀市を上げての記念行事が盛大に開催された。
そして多くの海外の来賓の方々に感銘を与えた。

ところで、私は自称“本の虫”という程に本が好きである。実際はネットで購入した本
(主に中古本が多い)をペラペラめくる程度の典型的な“積読者”でもある。
部屋に諸本が占有を始めるにつけ「読まなきゃ…」と罪悪感に似た気持ちにもなったが、
現在は、棚に並べられた背表紙を見るだけで気持ちが落ち着く。
その中でも司馬遼太郎著『街道をゆく42 三浦半島記』は興味を引いて、
そのストーリーに入り込んでしまった。

速読、乱読他。いろいろ読書法についてのありかたがあるようだが、先ず、
自分がなんとなく読んでみようか…の本のページを開いてみることをお勧めしたい。
つまらなかったら投げ出す。それでもいい。読書は決して四角四面に構えるものではない。

奇しくも司馬遼太郎氏のある紀行記を読み現地を訪ねることが叶い大変満足している。
著者の書いた記述を現地で確かめ納得できた訳で、私にとっては、まさに血となり肉と
なった読書体験といえるかもしれない。


【参考文献】

*司馬遼太郎『街道をゆく42 三浦半島記』朝日文庫2005年

  『街道をゆくシリーズ』は、書籍で全43巻。1997年から2000年までNHKで48回放映もされた。

*『横須賀製鐵所(造船所)創設150年記念展特別展示解説書』

 発行:横須賀市自然・人物博物館2015年

*市川光一・村上泰賢『幕末開明の人 小栗上野介』発行東善寺 1994年初版

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