日本人とドジョウ その②
2月(如月・きさらぎ)に入り3日の“節分”次の日は、24節季の“立春”である。
暦の上では、春を告げているが、そうは言っても…。
2月5日頃から今シーズン第一級の寒波到来、と気象庁が盛んに注意喚起を促していた。
案の定、当地ではその後4日間で40センチに達する降雪となった。
今回の寒波は、日本海側だけでなく、日頃雪への備えを必要としない四国、
中国地方、九州、更に主要都市、大阪、名古屋にも雪を降らせ大混乱となった。
毎年冬の寒波がくるとつくづく春が待ち遠しくもなる。
さて前回は「日本人とドジョウ」のテーマで、日本人に親しみ深いドジョウについて紹介した。
今回は、その2回目として地球環境との関係を含みながらお話ししてみたい。
日本は、弥生時代(紀元前10世紀~紀元後3世紀)に水田稲作が広まったといわれる。
当時は、同時に水田内で(魚類の生息)があったと考えられている。
その代表格がドジョウである。ドジョウは、もともと栄養価の高い魚で
江戸時代には健康食として「どぜう」料理は、大人気であった。
「柳の下にいつもドジョウはいない」や「ドジョウすくい」などの言葉があるように
なじみの深い生きものだった。ドジョウの語源をたどれば、江戸期に「泥鰌」と書いて
広まったが、それ以前には土に生きるという意味の「土生」や、土にいる長いもの
を指す「土長」や10本のヒゲが生えていることから、土のオジサン=「土尉」に由来する
説もある。いずれもドジョウは、土(大地)に由来している。ドジョウは、6月頃に用水路
から水田に入って産卵する。数日で孵化し水田にいる虫達の幼虫を食べて成長する。
人のつくり出した水田の環境に見事に適応している。そして、夏になれば大きく育った
ドジョウが獲れる。大陸から伝わった稲作でもドジョウやフナなどの漁労も同時に
行っていたと考えられる。このような“稲作漁労”のやり方は中国、長江下流域に起源を
持ってアジア各地に広まった。日本では、戦前まで当たり前の光景であった。
しかしながら戦後の日本では、用水路の整備や農薬の普及と増加によってドジョウの
棲みかは激減した。特に用水路の整備により水が自由に調整できるようになったため、
湿った水田が落水期には乾燥するようになり、ドジョウの棲みかが全国的に減少した。
棚田しかり、元来ドジョウは人のつくり出した水田の環境で増えてきた。
そして、水田と生き物の養殖を組み合わせた水田漁労を行うことでコメだけでなく
魚も収穫することができる。水田漁労には、コメからの炭水化物と共に魚類のタン
パク源も摂取できる利点がある。土の養分の観点からいえば、ドジョウによる土の
かくはんや排泄物が水田の養分濃度を高め、植物の生育や収穫量を高めてくれる。
正に一石三鳥の仕組みといえる。しかし、水田にドジョウがいた時代には、植物生息の
要素“窒素”が十分あった。その窒素を十分に吸収したコメは、タンパク質を多く
含んでいたが、今日のように美味しく(甘く)なかった。タンパク質が高いことと
美味しいことは別の話となる。現代人の味覚は、甘いご飯を求め変化していった。
その要望に応えたコメがコシヒカリである。甘い風味をつくるためにコシヒカリは
あまり窒素を必要としなくとも甘い。しかしながら以前のコメと比べて栄養価が劣り、
低タンパクである。
消費者の要求するニーズは、より多くの「甘さ」を求めてきた。
そして、農業技術の改良は、新たなより良い品種を求め続けている。
稲作と共に日本中に広がったドジョウは、「栄養たっぷりであるが美味しくないコメ」
と一緒に姿を消しつつある。
いまや絶滅が危惧されるドジョウは、田んぼとお米、更に私たち人間の関係の変化を
物語っているといえる。
大正期の唱歌「どんぐりころころ」の歌詞、
どんぐりころころ どんぶりこ お池にはまって さあ大変
どじょうがでてきて こんにちは ぼっちゃん一緒に 遊びましょう
にあるどんぐりとドジョウの関係は、正に当時のどんぐり(植物)と
ドジョウ(動物)の対比を示している。更に作詞者(青木存義)が、
ぼっちゃんを自分(人間)に重ね合わせているとしたらそこには、見事に
植物と動物そして、人間、三者の関係性が浮かび上がってくる。
さて、現代を生きる私たちはここにで立ち止まり、改めて
「地球=大地」の関係から、生きものである動植物、そして人間の立ち位置を
問いただしてみる必要があるのではないかと思う。