長岡大花火大会から思うこと
-長岡空襲と花火大会-
今年も79年目となる8月15日の終戦記念日を迎えた。
新潟県長岡市では、8月2日と3日盛大な祭りが開催された。つとに有名な
日本三大花火大会の一つでもある、長岡市大花火大会である。
長岡の花火大会が他の大会(大曲と土浦の花火競技大会)と異なっているのは、
いわゆる花火そのものの業を競い合う競技大会ではなく、慰霊と平和への
思いが込められた復興祈願の花火大会ということである。
昭和20年の8月1日は、79年経っても長岡市民にとって、決して忘れる
ことが出来ない日なのである。大東亜戦争末期、アメリカ軍よる長岡大空襲である。
それは市民が眠りに就こうとする午後9時過ぎ、長岡市内に空襲を警戒する
警戒警報が鳴り響いた。午後10時26分、警戒警報が空襲警報にかわると4分後には
米軍長距離戦略爆撃機B29が絨毯爆撃の雨を降らせ市内は、一面焼け野原となった。
大規模な無差別爆撃である。空襲は、その後100分間に及び、市街地の80%が
焼野原となって、子供280人を含む1488人の尊い命が失われた。
戦争末期に及んでアメリカ軍はひそかに原子爆弾の投下計画も作っていた。
攻撃目標としては軍事施設や工場であったが、いくつかの適用条件の中で
予定地として京都・広島・新潟・小倉・長崎を選んでいた。
新潟市への原爆投下事由は、物資の積出港や製油所を有し、戦時期の重要地区であり
原爆投下に値するとした。実際は、原爆計画に含まれた新潟市への空襲は実施されず
長岡市が空襲を被った。長岡市は、当時市内に兵器工業があり、
石油も産出された事から標的にされたと推測される。
また長岡は、時の連合艦隊司令長官、山本五十六の出身地でもあった。
当初、米軍の軍事目標は、通常爆弾による軍事施設、工場等の攻撃であったが、
やがて焼夷弾を使いすべてを焼き尽くす無差別爆撃へとエスカレートしていった。
それら長岡空襲をはじめ日本本土の空襲で多用された爆弾が焼夷弾である。
焼夷弾は、爆風や破片の飛散で対象物を破壊させる通常の爆弾とは異なり
攻撃対象を発火させる火災発生を目的とした。
焼夷弾で空爆された多くの都市は焦土と化した。こうした焼夷弾による日本本土の
攻撃に対して日本の軍隊は、ほとんど無力に等しかった。空爆での衝撃から最低限の
防御とされていた防空壕は、焼夷弾には効果を発揮するどころか、壕内は
蒸し焼き状態となった。長岡空襲では、防空壕が集中していた平潟神社での
死者が最も多かった。更に被災者は高温に耐えかね水を求めて河川になだれ込んだ。
爆撃地近くを流れる「柿川」は、丸焦げの死体で溢れた。
さて長岡が、爆撃される5カ月前の2月25日、焼夷弾による東京への本格的な
空襲が実行されていた。その僅か半月後の3月10日、東京の東側、
下町を中心に298機のB29が飛来、1783トンの焼夷弾の雨を降らした。
この空襲により一晩で7万2000人の尊い命が犠牲となった。(東京大空襲)
3月10日の東京大空襲の成功から米軍の方針は夜間焼夷弾空襲へと舵をきった。
これらの爆撃は、「絨毯爆撃」とも呼ばれる。これ以降、長岡市をはじめ横浜、
名古屋、大阪、神戸といった大都市は、焼夷弾による縦横無尽の無差別爆撃で
火の海と変わり果てた。そこには祖国のため戦う兵士の姿はなく、
逃げ惑う一般市民の姿と炎に飲み込まれていく日本の街の光景しかなかった。
実は、アメリカ軍は日本本土攻撃のための焼夷弾を密かに開発していた。
それは、ナパーム(ゼリー状のガソリン)38個を束にして詰め込んで、
地上に落下すると火を放つように工夫されていた。(M69油脂焼夷弾と呼ばれる)
更に効力を調べるために木造建ての日本家屋を想定した焼夷弾の延焼実験も
用意周到に行っていた。これら焼夷弾による本格的な本土攻撃は、
2月25日の東京空襲で実行された。東京空襲以後の焼夷弾爆撃の指揮を執ったのが
第二一爆撃兵団の司令官であるカーチス・ルメイ少将である。
彼は、命中精度を上げるため2000メートル(本来は凡そ7000メートル)の低空で、
しかも夜間に行う攻撃作戦を提唱しそれを実行した。(本土焦化作戦)
これは、日本上空独特の「ジェット気流」を避けるためにも有効であったと共に
当時の日本軍は、地上から対空砲火する迎撃力も無かったのである。
東京空襲での手ごたえを得てから各地の都市への空爆、更に広島・長崎の原爆投下
を指揮したルメイは戦後、日本政府から大勲位菊花大綬章を授与された。
航空自衛隊の創設に際して戦術指導を行った功績であったという。
1964年(昭和39年)12月、佐藤栄作内閣(決定は池田隼人内閣)の時であった。
さて長岡爆撃後の中小都市への焼夷弾攻撃は八王子、富山、水戸と次々に焦土化し
数日後、佐賀、前橋、鹿児島、今治等が攻撃された。そして8月6日に広島、9日に長崎と
2発の原子爆弾が投下された。更に原爆投下後も焼夷弾による空襲は、
15日終戦日当日まで繰り返し続けられた。終戦日の8月15日、長岡市では
朝6時50分警戒警報、7時25分に空襲警報が発令され、10時10分には
再び警戒警報が鳴り響いた。
「重要なる放送があります」
「畏くも聖上御躬ら御放送致されます」
ラジオからの重々しい声が市内に響き渡った。
そして天皇自らの肉声が流れた。(玉音放送)
長岡空襲から14日目にしてようやく戦争に終止符が打たれた。
本土空襲による死者は、少なくとも四六万を超える、罹災者は、964万人にのぼった。
空襲による被災した都市は、全国180に及んだ。