寺子屋”ZEN”は新潟県三条市の工具メーカーに勤務40年の丸山善三がお届けするWebメディアです。

難事の備え

あれから20年、教訓を活かそう

7月、この時期がくると私の記憶の中で思い出さずにはいられない出来事がある。

20年前の2004年(平成16年)7月13日新潟県中越地区の、特に
三条市を中心に襲った集中豪雨による大水害(新潟福島豪雨 7・13水害)である。
短時間の豪雨により五十嵐川の堤防が、13時15分に決壊した。
五十嵐川や刈谷田川など6河川の11か所が破堤し、市街地が浸水するとともに、
各地でがけ崩れなどが多数発生した。三条市においては、死者9名、重傷者1名、
被害棟数10,935棟、被害世帯7,511世帯と甚大な被害を被った。
五十嵐川決壊から3時間後には自衛隊本部が三条市に入り、上空から
ヘリコプターを使っての救助も行われた。何といっても全国から多くの
救援物資や義援金をいただいた。そして、県外を含め多くのボランティアの協力を得た。
これら多くの方々の心温まるお力は、“感謝“の一言に尽きる。

当時の私の経験を話したい。
昼食後、会社から社員に直ぐ自宅に帰る旨、報告を受けた。
自宅近くの橋が通行止めとの情報で何とか別の橋を渡って嵐南地区
(五十嵐川の南側地区)に入る。しかし自宅に向かう途中、車の流れの異常に気付く。
現在向かっている方向と反対から逃れるように車がすれ違う。ここではじめて私は、
正に自宅に近い決壊現場を目指して車を走らせていることが分かった。
私はすぐさま、きびすを返し引き返す。既に道路には茶色の洪水が溢れ、
タイヤが全て被る位である。私はコンビニに駐車し、向かいの医院の駐車場に
何とか避難できた。近くで停車している無人の車両からは、異常を知らせる
クラクションが不気味に鳴り響く。医院のロビーには私と同じような一時避難者が溢れている。
その夜は、床上浸水したロビーで水位を気にしながらまんじりともせず一夜を明かした。
幸いに早朝までに降雨も落ち着き水位もこれ以上上昇しないことが確認できた。
翌朝安全な国道までゴムボートで移動して、迎えに来た会社の車で、ひとまず
会社まで戻る事が出来た。九死に一生を得た体験であった。
その後三条市の速報で水位の低下知り、自宅に戻った私は、床上まで浸水し畳を
覆い隠している被害の現況を知る羽目になった。
同じく嵐南地区にある私の実家も床上まで浸水していた。(母は2階に避難しており無事だった)

 今では、20年を経過してこのように当時の様子を冷静に語ることが出来るが、
当時を思い出すだけでぞっとさせられる。一方、災害体験は、
私達に日ごろから「難事の備え」を怠ってはならないと警告を促している。

三条市にある五十嵐川水害復興記念公園では犠牲者を悼み、慰霊の碑が建てられている。
毎年7月13日に三条市長をはじめ、関係者が記念公園を訪れ、黙祷を捧げる。
この災害が発生した5日後の7月18日には、福井県でも洪水(平成16年7月福井豪雨)が発生した。
更に、全国で風水害が相次ぎ、多くの高齢者が犠牲になった。
この年は日本国中、災害から多くの教示を得た年でもあった。
その後、内閣府により避難準備情報のガイドラインが作られた。

【この街で 貰った教訓 受け継ぐ使命】

平成27年防災・減災標語コンテスト最優秀作品
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