福井弁の岳父(おやじ)さんのこと
私の岳父は、残暑厳しい八月末行く先も告げず旅立った。旅立ちの日、窓から入る黄昏時のオレンジ色の陽が、六階窓際の真っ白いシーツに差し込まれ長く伸びていた。中庭から微かな法師蝉の声が聞こえた。
岳父は福井市在郷の生まれで、福井商業卒業後自ら志願して海軍飛行科練習生(予科練)に入隊し、特別攻撃隊(特攻隊)に選抜された直後 八月十五日の終戦を迎えた。
昭和二十年八月十四日終戦前日、大阪京橋を中心にB-29が八度目となる大規模な空襲を行った。その約一週間後、福井の農家六人兄弟姉妹の次男坊であった岳父は、ためらう事なく わずかな夢を抱き戦禍の中 焼野原大阪の地に向かった。極端な物資欠乏が続き、食料は然る事ながら身に着ける衣服も当時は「タマネギ生活」(一皮むくと涙が出る)と言われる位に無かった。岳父は、取りあえず「予科練の軍服」を身につけて、ザック袋に五合足らずの米を詰め込み大阪駅周辺の闇市に降り立った。そこには、服役者、外地引き上げ者、第三国人等が吸い込まれるように集まっていて愚連隊が我がもの顔で闊歩する一帯でもあった。政府の配給制は、当然のように麻痺した。圧倒的に物資が不足し、わずかな物を求めての争いは、日常絶えることがなかった。闇市には連合軍、日本軍の放出品も多く出回り、一目で軍隊上がりと分かる予科練の井出達は、街のチンピラ達にとっては畏敬の対象となって容易に争いに巻き込まれる事もなく物品の確保をする事が出来た。
闇市の存在は、政府の配給制度では、生きていくための最低限の生命維持さえもできない状況で必然的に生まれた産物であったのだ。
岳父は、そこで人々が蟻のように物資を求め群がる光景を目にし、物品を持って流通させる商いを生業としてやりたいと得心した。そして昭和二十一年大阪市西地区の【立売堀(いたちぼり)】にある機械工具商「前田機工株式会社」に入り、取り敢えず生活の糧を得る事ができた。前田機工(創業当時、前田軍治商店)は、当時典型的な工具商で昭和四十八年からドラマ化された小説「どてらい男(やつ)」の主人公が、働いていたモデルともなった会社でもある。「どてらい男」は、現在一部上場の機械商社の創業者(福井県出身)を描いた物語で、主人公は戦後裸一貫で復員し厳しい丁稚奉公に耐えて独立し、現在の隆盛を築いた。それは戦後の高度成長と共に自ら頂点を目指し極めた希望あるストーリーであった。更に主人公役には、当時アイドル御三家の一人、西郷輝彦が演じ彼の衝撃的な俳優デビューとなった大阪を舞台とした作品でもあった。そこにはテンポ良い浪速言葉が飛び交い当時の流行語であった「モーレツ社員」こと主人公通称「モーやん」が、立身出世していく姿をおもしろおかしく描いて昭和四十八年から当時の人気ドラマとなった。
さて入社後の岳父は、計数に明るい才覚と独特の福井弁で持ち味を発揮し、福井県の同胞でもあった社長の全幅の信頼を得た。その後前田機工は、昭和三十八年当時年商八億に迫る企業体に急成長し、大阪の創業地から当時三倍以上の需要を見込めた東京への出店を決め、岳父を単身責任者として送り込むこととなった。奇しくも翌 昭和三十九年東京オリンピックが開催され最終日のマラソン競技で岳父は、住居近く(現在妻の実家三鷹市中原)の「甲州街道」沿いから王者アべべの力走、円谷幸吉のあえぐ姿を目の当たり見ることとなった。生前よくそのありありとした情景を家族に話し聞かせていた。
当時日本企業は、前年の二、三割の増額は当然、問屋業においては五割近い増額をめざし社員は馬車馬の如くに働いた。国民は、更なる生活向上を求め多少の無理をしてでも常に背伸びをして走り続け立ち止まる事のない時代であった。世間は正に競争社会に突入しここで負ける事は絶対に出来ない状況でもあった。
さて岳父は、と言えば東京進出から十年後の昭和四十八年東京都港区三田の地に待望の東京支店ビル(五階建て)を建設した。当ビルは、福田組が着工し当時田中角栄氏のご子息が施工を担当した建物でもあった。更に十周年記念として一七五名のお得意先をハワイへ御招待。当時日本に初めて納入されたジャンボ機をチャーターしての業界初の海外招待旅行でもあった。東京はじめ関東のお得意先からは、「大阪の会社は、ケチと思っていたが、意外と太っ腹だねえ。やる時はやるもんだ」と言われ会社のイメージを大いに高める旅行となった。世間は正に好景気であったが他社の二倍ものスピードで社業を成長させた原動力は、先代の社長が既に昭和三十八年の年頭に表明した人材の育成にあった。これと思う社員には、進んで夜学に行かせ(会社負担)実績を残した幹部には、権限委譲させると共に年五回の賞与を与えた。更に給料の二割は、積み立てさせ二十歳台で家を持たせて社員が意欲的に仕事に専念できる体制をいち早く築いたことにある。その後岳父は、関東に盤石な基盤を築いて平成八年に勇退した。前田機工の社訓は、「先憂後楽(せんゆうこうらく)」(上に立つ者は決して部下に先んじ楽をしては、いけない)である。いつの世も経営環境は、激流下にある。前田機工はそのご子息に引き継がれその後売り出され現在、その社名は無い。終戦直後、十九歳の夏に無一文で焦土の大阪の地に立ち商いに生涯を捧げた岳父は、奇しくも同じ月日に近い平成三十年八月二十二日楽しみにしていた東京五輪のマラソンランナーを見ることなく九十二歳、その生涯を閉じた。
「知恵ある者は知恵を出せ、知恵なき者は汗を出せ、知恵も汗も出せない者は去っていけ!」※参照元
独特の福井弁で話していた岳父の言葉が蘇る
〖かなかなや行く先告げず父は逝く〗