寺子屋”ZEN”は新潟県三条市の工具メーカーに勤務40年の丸山善三がお届けするWebメディアです。

小布施町のまちづくり

先駆者 髙井鴻山

梅雨の晴れ間を見計らって県外に出かけることにした。早朝、車で家を出発、一路信州長野県に向かった。高速道に入り新潟上越方面より南下し、長野県を目指す。数日来のうっとうしい梅雨空を突き抜けるように快適に長野県に入った。すこぶる気持ちが良い…。途中休憩を挟んで2時間30分程度で今回の目的地、小布施町にある「髙井鴻山記念館」に到着した。以前団体ツアーで当地を訪れた時は、「北斎館」を中心に見学したため今回の目的は、「髙井鴻山記念館」に絞ることにした。

小布施町は、長野県の北東に位置し善光寺平(長野盆地)にある県内で最も小さい自治体で総人口1万人、葛飾北斎等、歴史的遺産を生かしたまちづくりが特徴で町内に12の美術館、博物館が存在している。さらに栗、リンゴ等の特産品もある北信濃有数の観光地でもある。年間、町の人口の10倍を超える120万の観光客が訪れる。まず行って驚かされたのはその整った景観である。それは、古い街並みをモダンにデザインしたようにも感じる。当地では、全国に先駆けて景観条例を制定し独自の「町並みの修景事業」を推し進めてきた。ここでいう修景とは、景観の欠けたところを補い、不要なものを取り除いて一つのまとありある景観を構築する意味である。例えば、もとは畑のあぜ道であったみちを見事に「栗の小径」として美術館の連絡道に再現している。街並み全体が、牧歌的の雰囲気を失っていない。

さて、今回訪れた「髙井鴻山記念館」についてお話を進めたい。髙井鴻山(たかいこうざん)(1806年~1883年)は、幕末から明治にかけて活躍した文化人である。同じ信州人の佐久間象山等、思想家や文人たちとの交流をとおして、学問や芸術に多彩な才能を発揮した経世家でもある。鴻山が、北信濃有数の豪農商であった高井家の当主になってからは、浮世絵師葛飾北斎(かつしかほくさい)など多くの文人墨客(ぼっきゃく)を招くなど、小布施の教育や文化に貢献した。さらに巨万の財力を惜しみなく提供し幕末の変革にも関わった。維新期には、教育立県を強調し、晩年は東京や地元長野で私塾を開き教育活動に専念している。「高井鴻山記念館」では、幕末の志士や文人たちとの交流の場となった鴻山の書斎兼サロン「ゆう然楼」や北斎のアトリエ「碧漪軒(へきいけん)」も公開されている。

江戸時代後期、既に80歳を超えていた葛飾北斎がこの町に足繁く通い、多くの作品を残したことは有名である。北斎のパトロン的存在だったのが高井鴻山である。北斎と鴻山との出会いは、既に最晩年の北斎をさらなる円熟の域に導いたといえる。北斎が鴻山の邸宅に起居しながら創作した岩松院天井画や、祭屋台天井画はその代表例と言われる。そして、遂に北斎89歳、晩年最大の作品「八方睨み鳳凰図」が小布施で完成した。当作品は、雁田山麓の岩松院本堂の天井絵として、21畳もの大きさで描かれた極彩色の鳳凰図であり、希少な岩絵具をふんだんに使用して当時のままの美しさを再現している。いまから464年前の「川中島の戦い」は、越後の上杉謙信、信州の武田信玄それぞれの両雄が北信濃の領有権を巡って5回にわたり戦いが繰り広げられた。その戦いは、小布施町の南、千曲川と犀川にはさまれた現在の長野市川中島町一帯で行われた。北斎の作品でも川中島の戦いでの上杉謙信と武田信玄の一騎討ちを描いた作品がある。馬上の謙信が振り下ろした刀を、とっさに軍配で受け止める信玄。命と命をかけた気迫あふれる勝負の一瞬を描いている。

私は、「髙井鴻山記念館」見学後、小布施町の図書館に足を運んだ。その地方の歴史出版物を探すためであった。気が付くと既に陽も傾き始めていた。帰路を考え私はそそくさ館を後にした。新潟県の隣県である長野県は、相互に歴史的な関係性も長く、深い。まだまだ知り得ないことが沢山ある。ライフワークとしても手ごたえは、十分あるようだ。

読者の皆様にも、梅雨明け後、夏期から秋にかけての信州信濃の旅をお勧めしたい。 絶品の小布施の栗に触れ、モンブランを楽しんで、街並みを散策し、ライフワークバランスを高めていただきたい。

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