寺子屋”ZEN”は新潟県三条市の工具メーカーに勤務40年の丸山善三がお届けするWebメディアです。

50年前の東京回想-両親への思い-

今月(5月)69回目の誕生日を迎えた。これと云って実感はないのだが、行年58歳で他界した父の年を10歳も越えてしまった。奇しくも先般新しいローマ教皇に決まった、レオ14世も同い年であることが分かり、熟知たる思いを感じてしまった。

さて、本年令和7年は、昭和の年代からみて、丁度100年目(昭和100年)に当たる。正に“昭和も遠くなりにけり”の感がある。自身の話となってしまうが、50年前の私は、高校を終えて大学予備校へ通うため上京した。

50年前の東京と当時の自分の姿を重ね合わせてみたい。
1年間の予備校時代は、淑母の嫁ぎ先の近くのアパートで、既に社会人である姉と同居した。そこは、私鉄沿線の下町で小さな駅を降りると踏切を渡った商店街の中ほどにある処で、大家さんの自宅の2階にある6畳一間の部屋であった。共同の入り口、共同トイレの当時としては、一般的な形態であった。一軒先に“銭湯”があり、100円でお釣を貰いよく利用した。1年間の浪人生活から何とか第三志望の大学に滑り込んだ。そして、2年目からは、通学に便利な立川駅南口の四畳半のアパートに転居した。ここは、大家さんの隣り棟にある2階建てのアパートで、上下8部屋と記憶している。隣とは薄壁一枚の粗末な造りで隣部屋の物音は筒向けでだった。私の部屋には、両親から用意して貰った小さな冷蔵庫もあったが、今に思えば何かを入れた記憶がない。(ほとんど外食)さて、大学生活は、昼前に起きだしてようよう学校へ行き学食で昼食を摂り午後から部活動(体育会硬式庭球部所属)を陽が落ちるまでやった。授業は、1年時に必須の英語の授業に出席した記憶位しか残っていない。(よく卒業できたな…)
当時は、あちこちにコンビニもなく(都心部で出店開始)勿論、携帯もない。特別な場合のみ大家さんが電話で取り次ぎしてくれた。よく両親は、私と姉に手紙を書いてくれた。時に米や日用雑貨品を送った荷物に書き添えられた手紙が入っていた。以上、東京での4年間の学生生活を大まか書いたが、数年前に予備校時代の(品川区)と学生時代の(立川市)のアパート周辺を行く機会をつくった。「様変わりした!」に尽きる有様であった。勿論アパートは、跡形もなくビルや立体駐車場に変わっていた。記憶を呼び覚ますものが有るか?と周辺を散策したが、隣接する公園を思い出すことが精一杯だった。通学で利用した首都圏の電車内の場景も変ってしまった。当時は、新聞や本を広げる姿が日常であったが、昨今、一様に人々の目線がスマホである。そもそも人と目を合わせるそのものがなくなってしまった。

さて、こうして 回想してみると50年前(当時も物価高)に地方から勉学のため二人の子供達を上京させた両親の負担は如何ばかりであったろうか。想像するに難くない。当時としては、多少の経済的余裕はあったとしても厚遇な環境を両親から提供してもらった事は云うまでもない。更に自身を内観してみるとそれらの環境で本当に先を見据えて学業に専念したか…?と問うと、はなはだ多くの疑問が残るのだ。反省しきりである。しかしながらこれからは、両親の分まで生き切ることに専念したいと痛感した次第である。

最後に更に当時の事を知りたい方は、私と家族の日常を綴った拙著『父母のことば、恩送り』をお読みいただければ幸甚です。

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